「私は、いま、夕暮れ前です。綺麗な夕日が見たいから、いまもう少し頑張る・・」という一通のメール。それを拝受したのは、私が以前、
「あなたは今何時?」という記事をUPしてほどなくしてからだった。その日の私のブログは、特に60歳前後の男性からの反応を多く頂いたことを憶えている。そのメールを下さった方が、以下の記事を今度は書いてくれた。夕暮れ前の彼は、鹿児島で生まれ、今、北九州に住み、日々、紙面等で記事を書き、読者に伝えてくれている。その彼が、日々の取材の中でいつも感じるのは、「故郷を憂う心の大切さ」のようだ。いま、夕暮れ前の彼は、いろんな時間帯の人を取材をする中で、より眩しい夕暮れの支度をしているのだろう・・・。そんな彼が書いてくれたのが、以下の記事。「ありがとうございました」
〜リレーインタビュー 「まちづくり夢語り」〜
第19話 宇佐美本店?の4代目代表
宇佐美 志都さん(30)
◎プロフィール
1977(昭和52)年6月、小倉北区に調味料卸会社の長女として生まれる。書道を教えていた母に3歳の時から習い、書を学ぶために福岡教育大学の書道科に進学、学生時代から個展を開くなど頭角を現す。卒業後、市内の県立高校で教壇に立ち書を教えたが、書家としての道を選び、1年後に上京して修行。しかし3年後に母の病死で帰郷。平成17年に家業を継ぎ4代目に就任したのを機に新しい販路を開拓する一方、自らの書をラベルに使用、店頭の商品一個一個に自筆の私書を添えるなどのユニークな販売方法を展開中。書家、デザイナーとしての活躍も含め、全国的に知られるようになり、新たな“北九州ブランド”になっている。
◆小倉気質
豊前国の中心を中津から小倉に移し小倉城を築造した細川忠興は各街道の出入口に堅固な門を設け他藩からの攻撃に備えた。宇佐美さんが生まれ育ったのはその一つ「中津口」。往来の要所だった界隈は、400年近くを経ても商店や企業・官庁が並び、夜の繁華街もあって賑わいは引き継がれていた。「毎晩のように酔った男女が家の前を大声で歌いながら行き来していました」。大人には昼の顔と夜の顔があり、どちらもその人の本当の姿なのだと学んだ。「夜も眠らない街で育ち、昼が夜を支え夜が昼を支えていること、だから人も物事も一面的には捉えられないことを知りました」
昼の勤勉さと夜の猥雑さが混在しながら向こう三軒両隣の人情も残る街で育った宇佐美さんが、自分に備わった “小倉の気質”を自覚するのは後のことだ。
◆4代目を継いで
大学卒業後、1年間だけ教壇に立ったが、書家の道を志して上京。画廊や美術館を巡り、個展を開くうちに仕事も入り、プロ書家としての活動が軌道に乗り始めた01年、母が急死する。急ぎ帰郷した宇佐美さんは母親の死という人生の大きな転機に、母から継いだ“書”と、父方が3代で築いた“食”の融合こそ自分に与えられた道だと気付かされたという。
業務用専門を貫いた宇佐美本店は、長年にわたりプロの板前さんに認めてもらったことが誇りであり自慢だった。しかし宇佐美さんはこうも考えた。「プロが愛用している商品だからこそ、日夜料理をする主婦にも使ってもらいたい。そして贈答品としての確立も」
05年に正式に4代目代表に就任すると、一般消費者向けの販売に本格的に取り組み始めた。絞り込んだ商品に味と精神を表す名前を再考、自ら筆を執りラベルに。主力商品だった濃口醤油には母の雅号だった「静園」と名づけ、母の遺作から書を引用する事も忘れなかった。「いつか二人の書展を開きたいね」という母の願いが、商品セットのケースの中で実現した。
一方で商品取扱店にも恵まれた。現在、宇佐美本店の商品取扱店は、県内はもちろん東京、横浜、名古屋などに計20店以上。現地に足を運び、「自分が商品棚に座ってもいい」と思う店だけを選定した。
ホームページやブログも立ち上げた。宇佐美本店と書家・宇佐美志都のHP・ブログ共に、アクセス数は常に全国上位にランクされている。「取扱店様もインターネットからのご用命もほとんどが関東地方です」。今や「宇佐美本店」の知名度は地元九州よりむしろ中央で高くなっているようだ。
◆飛び込みでの売り込み
書家として、経営者として、頻繁に東京―小倉を往復する宇佐美さんは北九州空港の大の愛用者。「銀座で一杯飲んでからでも間に合う深夜便は最高! あの便がないと生きていけない」と言うほど。
そんな“シャトル生活”の中で、04年に開拓した取扱1号店にはエピソードがある。「銀座の交差点近くにとても気になる店があって、このお店にうちの商品が並んでたらいいなと画廊巡りの合間に通るたび思っていました」。九州の焼酎を専門に売る店だった。仕事で上京したある日、店に飛び込んだ。レジの女性にカタログを見せ、「私、ここの娘なんですけど、こちらで扱ってもらえないでしょうか」。いきなりの“商談”に驚いた店員は「店長お〜っ!」。宇佐美さんは店長に思いを告げた。翌月、承諾の連絡が入った。店もちょうど醤油を探していたのだそうだ。
今年春にも “売り込み”を成功させている。ホテルオークラ東京のバーに紹介で行った宇佐美さんは、小さな風呂敷から宇佐美本店の「恋雫」(橙果汁)を取り出し「これで一杯作ってほしいんですけど」。バーテンダーもその香と味が気に入り、早速メニューに。以後次々と「恋雫」を使ったカクテルが考案され、恋雫カクテルは東京都知事杯で準優勝を納めることにまでになった。
そんなエネルギーはどこからくるのか。「小倉の街で育ったせいか、どこの国のどんな人とお会いしても『緊張』というものを感じたことはない。怖いもの知らずも時には幸いするようですね」
「商品を認めて頂くということは自分という人間をも認めて頂くこと」。この冬、店頭の商品一個一個の箱に、自筆の短冊を同封することを始めた。短い手紙だが料理を頑張る主婦へのエールも込め一枚一枚違った文面をしたためる。「味わって頂くだけでなく、お元気ですか?という気持ちも伝えたい」。まさに「書」と「食」の融合だ。売る側と買う側の新しいスタイルのコミュニケーション。お取り寄せ販売では、店頭販売に勝るにも劣らぬ交流があるという。まだ見ぬ人を思い浮かべながら支度する事も醍醐味のひとつのようだ。
◆六角形でなくていい
「北九州市は100万人の人がいるけど一人になれる街ですよね。すぐ近くに海があり山があり、他人に邪魔されずにふっと孤独になれる。それが大都会にはない魅力です」。そして特性を示すときに使う六角形の「クモの巣グラフ」に例えてこう続ける。「北九州市はきれいな六角形を目指してもだめ。優等生でなくていいんですよ。それより、どこか一つ二つとんがっていればいい。形としては二等辺三角形かな?」
「書でも商いでも何を選び何を捨てるかを見極めることが大事。まちづくりでも同じではないでしょうか。足りないものを補うのではなくて、今ある、今持っているいいところを伸ばせばいい」。そして北九州市が誇るべきものの一つが「人情」ではないかと言う。宇佐美さんは和調味料を売りながら、同時に「心」や「情」も伝えるという手法でそれを実践している。「北九州で生まれ育った自分という人間や、北九州で育まれた商品を全国の人に知ってもらうことは、北九州そのものを伝えることじゃないですか」
宇佐美さんが好きな場所は、生まれ育った中津口紺屋町界隈と足立山の山麓。街の賑わいと四季折々の自然の両方に育まれた、強さと繊細さが、宇佐美さんの「書」と「商い」の両方に脈々と流れているのかもしれない。
宇佐美本店 HP
http://www.usamihonten.com宇佐美志都 HP
http://www.shizuusami.com宇佐美志都 ブログ
http://shizuusami.exblog.jp◎ことば
宇佐美本店?
小倉北区中津口2丁目の調味料卸会社。醤油、ポン酢、果汁が主力商品。明治29年、初代が名古屋から台湾に移り味噌醸造業を創業。大正14年に山口県宇部市と小倉市(当時)に支店を開設したが、戦後は台湾、宇部の店を閉め、小倉本店一本で営業している。割烹料亭などへの業務用卸を通してきたが、3代目の長女、宇佐美志都さんが4代目に就任してからは、都内の高級専門店や各地の百貨店の売場での展開のほか、ネットを使った個人向け販売も始めた。洗練された味とパッケージなどを多くのメディアが取り上げ、今や全国ブランドとなっている。
お醤油のご用命は「宇佐美本店」までお気軽に
宇佐美本店 四代目 宇佐美 志都